昭和54年3月26日 朝の御理解
御理解第七節
「天地金乃神は昔からある神ぞ。途中からできた神でなし。天地ははやることなし。はやることなければ終わりもなし。天地日月の心になること肝要なり。信心はせんでもおかげはやってある。」
天地金乃神様のご信心というか、ご性格というか、それを一部だけを捉え、一部だけを見てきた過去の宗教。それを教祖の神様は、もう、まると、そのまま天地金乃神様を頂かれ、そして、現そうとなさった。金光教が百年経って、それが、金光教、そのご信心を、やはり一部しか、現しえていなかった、ね。その、天地金乃神様を、合楽では、ひとつの助かりの理念のすべてを求めて、合楽理念と称して、日々、そのことが解かれてある。それは、天地金乃神様の全貌であり、すべてである。そこに、天地金乃神様の、いうなら、心情細やかな働きが、合楽の上に起きておる。その、合楽に起きておる、その働きを、お互いの一人一人が、受け止める。沢山な子供がおっても、どれ一人として、「もう、この子はいらん。」という子供はおりません。それが、親の心情です、ね。「うるさいと 思えど いる子ばかりなり」である。ね。それを、過去の信心は、そういうふうに解かなかった。ね。良いのがあったり、悪いのがあったり、もう、悪いのは、抹殺していくといったような生き方。そういう過去の信心から、ね、まぁ、感じられるものばかりである。そこで、私共の信心としても、そういう神様を頂くための、まぁ、手立てが、合楽理念に解かれるわけですけれども。
昨日、二十五日の研修会でしたから、いつものように文男先生が来とりました。その人が、発表しておりました中に、あのう、「もちろん、合楽理念をマスターするということなんだけれども、うん、この神様は、情念の神様だ。」と。「だから、その情を持って?がり、情を持って合楽理念をマスターしていかなければならない。」というような意味の事を話しておりました。
善導寺の原さんが、発表されておる中に、「私は、神様に好かれておる。」ね。だから、どういうような場合であっても、嫌いだから、憎いからというて、下さるものは、何ひとつとてない。総てが、それこそ、「うるさい」と神様から思われる。嫌な奴だと思われるだろうけれども、神様の氏子である、ね。「もう、この子ばかりは、しょうのない。」。また、自分自身も、自分の心の中に、へきへきとするようなものを感じる。けれども神様は、私を子供として、見ておって下さる。「うるさいと思えど」、結局、神様の、「いる」と思し召しめされる、大事な神様の愛し子であるとしての、まぁ、自覚といったようなことを、まぁ、話しておられました、ね。私は、思うのに、やっぱりですね、昨日、私、高橋さんと文男先生を、例にして、そん、高橋さんは、あのう、そういうね、情念に欠ける。私は、例えば、うんなら、親先生に、一番好かれておるというふうには、思っていない。文男先生の方は、もう、そういうことはお構いなし。「もう、私が、一番好かれとる。」と、こう思うておる。そこのへんのところで、信心の、なんていうか、おかげの開きというか、なんか、こう、交流するものが違うような感じがする。なんか他人行儀である。文男先生が、完璧にできておるとか、できていないとかいうことじゃぁないけれども、それこそ、原さんの信心が、でけておるというわけではないけれども、もう、それこそ、でけていない、自分を自分で見つめる時に、へきへきするようなものが、自分の心にも感じるけれども、分かるけれども、ね、けれども、やはり、神様はね、「『いる子ばかりなり』の中に入れて頂いておるんだ。好かれておるんだ。」と思うておる。だから、叩かれても、「憎うて当てる手ではない。かわいいからこそ、叩かれるんだ。」という、自覚もすぐに生まれてくるわけなんです、ある、ね。
大きな象の、ね、動物の象。一人は尻尾だけ、こうこう、あたって見て、「象というものは、こんなものだと。」。鼻だけあたって、「象とは、はぁ、ね、長いこんなやわらかいもんだ。」とか、足だけあたって、「とにかく、もう、こんな大きな、その、ものだ。」と、こう、いうふうにね、その、一部、一部を、いうならば、象を、それを、だから、みんな合わせて、はじめて象というものが、「こんなもんだ。」と分かるように、教祖の神様、その象の総てを、を、頂かれたお方だと、ね。それは、いろいろ、まぁ、この御理解を頂くたんべんに、それを実感する、ね。だからこそ、天地金乃神様の、いうなら、すべて。「天地日月の心になること肝要だ。」というふうに言われた。
昨日、高橋さんが発表しておられましたが、もう、私は、その、こう、今、仲人しよんなさりますが、「五組、仲人しました。それが、おかげで、ひとつも壊れない。今度、また、一人、一組、仲人の御用を受け賜っておられますが、もう、先方の方が、『どこへ参った。ここへ参った。』と言うては、『日が良いの、悪いの』、もう、ようやく決まっておった日にちが、また変更になる。といったとような、ああ、中にあって、こちらは、もう、『お宅の良かごつです。』というちから、もう、楽なことです。」という話しをしておられました、ね。もう、この、いちじからいうても、金光教の信心が、いかに、いうならば、「楽な信心か」ということが分かります。これは、たったそれだけのことですけれども、大変、大きな悟りが開けないと、それが、できないのですし、分からんのです、ね。私、話しを聞きながら思うたんですけども、「もう少し本気で、合楽示現活動をに、参画の思いがあるならば、『私は、金光様のご信心をするけれど、そんなことは、全然言いませんよ。』と、いうなら、コンコンと、そのへんのところを解いてあげられたら、もっと素晴らしかろう。」と思った、ね。もう、そのいちじからいうても、金光教の信心が、いうならば、天地のすべて、いうなら、「天地日月の心になったら、良いもなければ、悪いもない。」ね。けれども、その内容としては、いわゆる、昨日から、ね、一昨日から頂いておりますように、「八百や金神」ね。天地金乃神様の働きの中には、そういう、面もあるということ、ね。ただ、まっすぐに、まっすぐい道というて、それを、「真の道」のように、いうところに、昨日、原さんが、そのことを発表しておられましたが、ね、ね、「それが、まっすぐだ。」ということの、いうなら、が、ね、今まで、いうなら、道徳的とか、常識的に勉強してきたことは、「これが、まっすぐだ。」と。親子の道でも、ね、何の道でも、「これが本当だ。」と思い間違っておったことを、金光教の信心をさせて頂くと、そうではない。もう、いうならば、曲がりくねっておる、ね。だから、うん、ならば、昨日の、あのう、三頭火の句ではないですけれどもね、「まっすぐで、さみしい」というような結果が、あらゆる宗教に現れてきた、ね。それこそ、うねりくねっておる、ね。そこを、私共が、分からないから、ね、御神意、神様まかせで、そこには、神様が、「『さぁ、右に行けよ。左に行けよ。』と指し示して下さるまにまに、動いておるんだ。『その働きの中にあるのだ。』と思うておる。」という意味の話しをしておられました。まさに、その通りです、ね。少しばかりの自分の、いうならば、知恵知識を持って、「これが、本当だ。」と決める。なるほど、それが真理かも知れない。けれども、「金光教の信心は、超真理だ。」というふうに、私が、いつも申しますように、人間では分からない、ね。それは、天地の中に「人間が、幸福になっていく」という時点に置いてです、ね、天地の心を心とし、日月の心を心としていく、その、生き方の中にもです、ね、どれが、どういうあり方が、天の心か、地の心か、または、日月の心かということは、分からない分野が、沢山あるけれども、ね、「人間が楽しゅう、有難う、ね、しかも勿体ないでいけれる道があるんだ。」と、ね。「それは、どういう、ややこしい、難儀な問題であっても、だから、すきぐしですいた様に、解決のおかげになってくるんだ。」と、金光様のご信心は、ね。
昨日、研修の最後に、二十五日の研修は、ああ、まぁ、婦人部会があって、その後が、研修になるわけですから、まぁ、必ず出席されるのは、文男先生と高橋さんですけど、まぁ、研修になるわけですけれども、どうもこう、なんの研修も、共励会も、同じ、ただ体験発表のようなことでは、ひとつも研修が、研修にならんじゃないか、と。だから、ひとつのテーマを設けて、まぁ、この月の焦点といったような、いうなら、最近、ここで言われるように、「金光教の信心、いや、合楽が誕生したおかげで、あらゆる宗教、こりゃ、金光教も、過去百年の信心というものが、価値観を失うほどしのことが、言われておるんだ。」と。例えば、「そういう素晴らしい、合楽の信心だ。」と人に伝えて、そんなら、「どこが、価値観をなくする、失うほどしのことですか。」と問われた時に、「それが、説明のできる人があるだろうか。」と。いうならば、日々、噛んで含める様に教えられておるけれども、なかなか、まとまっていない、ね。こういう、素晴らしいものを、素晴らしいと表現できることのために、人にも説明ができることのためにです、「そこんところに焦点を置いて、これから研修したら、どうだろうか。」という話しになりましたがです、ね、今、合楽では、そういう、ね、「過去数千年続いた」と言われるほどしの大宗教であろうがです、いうなら、ちまたにあふれておる信仰宗教であろうがです、いや、それは、金光教自体ですらもです、教祖金光大神が、こういう尊いことを、こういう広い範囲において解き明かしておられるのだけれども、「それを深く広く、それを頂きとめていなかった。」ということなんだ。おかげは頂いてきた。けれども、それは、浅いものであった。合楽理念によって深められた、広められた、ね。広められてみたところがです、ね、これは、いうなら、さっきの「象の総てである。」ということが分かった。「象というもんは、こういうもんだ。」と、ね。「天地宇宙の中には、人間氏子が幸せになる。助からなきゃぁならないためには、もう、その神愛のみの中にあるんだ。」ということが、だんだん、明らかになってきた、ね。それは、私共がです、ね、いよいよもって、「天地の心とは。日月の心とは。」という追求から、ね、最近の言葉でいうと、もう、「どろの信心に極まった。」と。
先日、私、あの、霊祭の日でしたけれども、秋永先生が、その前日が、ああ、代表者会議に出席した。いうなら、信徒の代表、青年教師、壮年教師といったような、あらゆる分野の信徒、教師を交えた代表者ばかりの会合であった。そん中で、うん、ある先生と、その、やりやりやりおうた話しをしておりました。して、その先生の話しを聞いておるとです、とにかく、あなた方、いや、その、秋永先生がです、その方法論だけ。どうすりゃぁ、信者が増えるかとか、というようなことだけに言わずに、いうなら、根本的な助かりといったような、合楽のことを、まぁ、話したということです。その方は、甘木関係の先生です。それで、言われたです。「なるほど、合楽がおかげを頂いておるだろう。それは、過去においても、ここへんでいうなら、ああ、福岡だって、久留米だって、小倉だって、一時は、隆々たるご比例が輝いたんだけれども、現在はどうか。」と。「それは、甘木においてですらもそうだ。」と自分の教会のことを言っておられたそうです。甘木の教会ですらも、初代がおられた時と、現在というたら、もう、大変な違いなんだ。してみると、その「大変な先生がでけられて、大変なご比例を立てられた、そのまねではいけないんだ。」ということなんです。私は、それを聞きながらね、「ははぁ、もう、合楽が、どんなに口をすいくして、『こういう生き方があるんだよ。』と言うても、それは、『あんた一代のもんだよ。』と、それを、まねしたって、おかげを頂けるもんじゃぁない。」といったような捉え方しか、でけていないということを、改めて、私は、分からせて頂いたんです、ね。なるほど、うんなら、合楽も二代になれば、三代になれば、やはり、また、「閑古鳥が鳴くようになるかもしれん。いや、なる。」と、みんなは、見ておるわけです、ね。それで、それ、聞きながら、私、思うたですけれども、うんなら、久留米なら久留米にですよ、いうなら、「信心辛抱」という、素晴らしい信心があった。それを助かりの理念にまで高めていたなかった。もう、久留米ん人たちは、この「信心辛抱」、このひとつだけにかけたら、確かに生き生きとしたおかげが頂けれるのだけれども、辛抱せずに、「信心辛抱とは、信心辛抱とは。」という、もう、会合のたんびに話しにはでるけれども、信心辛抱をしとうと、みんながしとらんっちいうこと、ね。「甘木だってそうだ。」と。ああいう素晴らしい、大徳の先生がおられたのだけれども、「その助かりが、ひとつの理念になってまとめてなかった。」と、ね。私が、中近畿から、あのう、青年教師の方たちが、何回も何回も見えた時に、その、「合楽の先生。今、あなたの時代には、日勝り、月勝りに、こうやって繁盛しておられますが、これが、息子さんになり、孫さんになった場合はどうなりますか。」と、こういう。「『そりゃぁ、私、先のことは、分からんばの。』っち。『私が死んでみにゃぁ分からんこつじゃから。』けれどもね、合楽には、合楽理念がある限り、ね、しかも、その、合楽理念というのは、有難う、楽しゅう、しかも愉快にまでなって行じていけれる手立てが、理念に解いてあるから、これのある限り、これの守っていく限り、教祖様のお言葉を実証していくことができる。『親の代よりも、子の代。子の代よりも孫の代』と繁盛していくと、私は、確信しておる。それは、合楽には、合楽理念があるからだ。」というふうに解きました、ね。まさに、私、「そうだ。」と思うんです、ね。私の孫の、いうなら、名前を頂く時でも、「恵みの城」と頂いた。「恵城」というんです、ね。だから、「城」という字を、こう、分解すると、「土偏に成る」と書いてある、ね。だから、この「土偏に成り」ということがです、ね、例えば、孫に染み込んでいく。そういう信心。もう、どろの信心さえしとれば、「恵まれる。成就せんことはない。」という、ね。だから、もう、ほかんことは、分からんでもよいけん、どろの信心を、いよいよ、身につけていくという、そこから、様々な、あの、深い、または、広い範囲に追求していくことだろう。というようにです、「もう、ちゃんと、そん、教えてあるんだ。」と。だから、それを守らなかったら、もう、しかたがない、ね。それがね、ただ、ひとつの理念にまとめてない、かった、ということがね、まぁ、あれほどしの大徳の先生がおられたところで、ああいう、いうならば、ご比例が、輝いた教会が、だんだん、寂れていくというのは、そういうことではなかろうか。改めて、いうならば、合楽理念の、いうなら、確立ということを、目指さなきゃぁならんと同時に、めいめいが、やはり、その合楽理念のマスターであり、いわば、行者であり、それを、また、説明できれる、いうならば、示現者でもなからなければならないということであります、ね。だから、「研修しよっても、そこに置け。」と、昨日の研修会の時に、申しましたことでしたけれども、ね。「天地日月の心になること」ということの中にです、ね、今まで、そう、「これは、間違えである。」とか、「ここはいけない。」とか、ね、いうならば、ああ、「何の日はいけない。」とか、「あちらの方角が悪い」とかといったようなものが、全部なくなって、「もう、天地日月の心になれば、もう、それこそ、指で押すだけでも、天地の中に、そういう、「不成」の、いわゆる、「『不成とは、成就しない』というような働きのある事柄やら、ことはない。」ということを、ひとつ、お互いが、分からせてもろうて、そういう、大変な信心を、私共は、いうならば、天地日月、うん、「天地は流行ることもなし。流行ることもなれければ終わりもなし。」という、ね、もう、天地のあらん限りの、信心をです、私共の信心の上にも、家庭の信心の上にも、それを現していかなければならない。そこで、合楽、ね、「なん何は、合楽理念をもってするほかない。」という、すべてのことに、合楽理念が、生き生きとして、おらなければならない。ね。
何か例えて、申しますとね、うん、今日、私、ご神前にでらせて頂きましたら、白衣をつけた人が、あのう、祓いのあれで、こう祓っておるところを頂くんですよ、ね。例えば、おかげの受けられないものを、外にあるように思っておるわけです。もう、合楽の精神にゃぁ、この精神は、大体はないんです、ね。おかげの受けられないものが、「家の嫁子がこげんじゃから。家の息子がこうじゃから。」じゃないっち。「それを、改めさしたら。」じゃない。「自分自身が、祓われたらいいのだ。」ね。もう、過去の宗教は、全部、外を祓う、おうとする生き方。だから、「日が良いの。悪いの。金神ゆうこうがこうだ。」というふうな、なってきた、ね。「こちらを祓おう。」という生き方になれば、そこにね、ええ、どういう例えば、あのう、まぁ、仏教でいう、因縁であろうが、輪廻であろうが、ね、キリスト教でいう、罪であろうがです、祓うのじゃない。自分の心の中さえ、祓うていけば、そういうことは、全然、問題ではない。自分の心を祓うていくというこは、そのまま、和賀心に近づいていくことである。「和賀心の前には、罪もなければ、因縁もない。」と言われるのは、それなんです、ね。それをです、ね、そういう、例えば、今日は、まぁ、理屈っぽくなりましたけれども、そういう、いうならば、ああ、信心をです、私共がね、その文男先生が言うわけではじゃぁないけれども、「情念をもって頂く」ということなんです。原さんじゃないけれども、「私は好かれておる。」という、その情念なんです。「そりゃ、好かれておるはず、そんなら、私自身が、素晴らしいから。」じゃぁないんです、ね。それこそ、「うるさいと 思えど いる子ばかりなり」。もう、神様から御覧になったら、「『もう、こんな奴。』と思われておるだろう。」と。「けれども、神様は、私を離しきんなさらん。」と、もう、ちゃんと思うとるわけです、ね。親子だから。それが、ましてやです、なら、神様の機感にかなう、「はぁ、自分のこげんところが、神様に好かれとるとばいなぁ。」というものが、だんだん、大きく広くなってくれば、「こりゃぁ、いよいよもって、私で、なからなければでけん。私で、なからなければ、神様の願いを成就することはできない。」というような、大きな、ひとつの希望のようなものもできてくると、こう思うんです。どんなにお粗末ご無礼な私であっても、神様が親じゃから、自分を、いうならば、ええ、「見放しはなさらない。」という、この実感なんです、ね。神様の、こりゃぁ、人間の情でも同じですけれども、「もう、ほんに、こん奴ばっかりは」っちいうごとあるばってん、それけんっちいうて、それを、なら、追い出しもきらなきゃぁ、例えば、追い出したところで、心はいつも、その子供の上に思いが、置かれるような情をもっておるように、ね、天地金乃神様と私共との間というものが、そういう情念に、結ばれる、ね。それでいて、合楽理念がマスターでける。行じていけれるということになる時にです、いうならば、いよいよ完璧の、いうならば、信心を目指すということになるのじゃないでしょうか。どうぞ。